本・映画

2012年3月30日 (金)

「長ぐつをはいたネコ」

Puss_in_boots

昨日は夕方から僕の仕事がオフ。春休みの子供たちの塾も習い事も全くないという、みんなの休みが珍しく合致する日だったので、家族で映画を観てきました。

恐らく家族6人揃って劇場で映画を観たのは初めて。

時間的に観られる映画は「ドラえもん」とこのドリーム・ワークスの「長ぐつをはいたネコ」だけだったのですが、子供たちはみんな「ネコ」を希望。

確かに「ドラえもん」はそのうちテレビでやるだろうし、「ネコ」は3Dだものね。

この映画、「シュレック・シリーズ」のスピン・オフになる作品だそうですが、ウチの家族は誰も「シュレック」は1作も観ていないはず。

それでも十分楽しめました。

というか細かいことを言うとストーリーは突っ込みどころ満載なので、ノリと画像と個々のエピソードを楽しむ映画かと・・・

しかし一時の流行りで終わるかと思った3D映画ですが、3Dをわざわざ見せるための大げさな演出も減り、普通の場面で普通に3Dを堪能するという円熟期に入ってきたように思いました。

家族で劇場を楽しむにはいい映画だったと思います。

次女はちょっと怖い場面もあったらしく、大きな3D眼鏡を掛けながらすすり泣いていたようですが(笑)。

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2011年8月10日 (水)

「嫌われ者の流儀」

41sro7uq5ll__sl500_aa300_ 堀江貴史氏のことはずっと「悪い奴」だと思っていた。

しかし、思い返してみれば、僕が彼を評価する資料は全て例の「ライブドア事件」のテレビ報道によるものでしかなかった(今はほとんど見なくなってしまったが、当時はまだ少しはテレビを見ていた)。

もともと僕は経済に詳しいわけでもなく、ましてや「ライブドア事件」で何らかの直接被害を受けたわけでもない。

しかし(いやだからこそ)、テレビによる一方的な報道を何の疑いもなく鵜呑みにして、堀江氏のことを評価していた。

冷静に考えてみると、堀江氏は「フジテレビ買収」を企図しテレビ業界の既得権益層に真っ向から挑んだ人間である。テレビが彼のことを好意的に報道するわけがない。

僕はまったく深く考えずに、この報道に対するリテラシーを著しく欠いていたと言わざるを得ない。

その「ホリエモン」こと堀江貴史氏の評価が少しずつ変わり始めたのは、彼がTwitterで頻繁に様々な意見を言うのを目にするようになってからである。

Twitterで彼のことをフォローするようになって驚いたのは、自分に対する些細な批判にもいちいち答えていた点だ。

彼のようにTwittterのフォロー者数が数十万にもなると、当然称賛も批判も山のようにあるわけで、通常は無視してしまうことが多いと思う。

しかし堀江氏は愚直と言っていいほど、そのひとつひとつに答えてTweetしていたのだ(もちろんそれが全ての批判に対してかどうかはわからないが)。

多くの人が、堀江氏に対する評価を変える潮目になったのはTwitterでの発言によるもののようだ。

そういう意味では、彼の「草の根運動」は確実に種を撒いていたと言えるのかもしれない。

前置きが長くなった。

堀江貴史氏と茂木健一郎氏の対談本「嫌われ者の流儀」を興奮しながら読んだ。

茂木氏も堀江氏のことを「悪い奴」だと思っていたらしい。

堀江氏は茂木氏をNHKの司会なんかをする「つまんない男」だと思っていたらしい。

茂木氏と堀江氏の両者をTwitterでフォローしていると、全く別々のタイムラインで流れて来ていた二人のTweetが絡み始めたのは比較的最近のことだ。

Twitterを通して互いの存在を再認識した二人が2010年10月から2011年5月までに6回、計15時間に渡って、ライブドア事件について、日本について、日本人について、国家について、司法について、変革・革命について・・・様々な問題について、互いの見解を述べ合い、ディベートし、意気投合し、エールを送りあう。

決して二人の主張の全てが一致しているわけではないが、お互いを社会(既得権益層)からの「嫌われ者」と認識し合った時、お互いに生まれたリスペクトの思いが実にいい塩梅にこの対談を醸成し、相乗的に密度の濃い時間を作りだしている。

深い教養に裏打ちされたそれぞれの確信が、些細な日常生活周辺から宇宙に至るまで縦横無尽に絡み合い、読者さえもその現場に居合わせたかのように興奮に引き込んでいく。

いい対談本です。

目次を読み直していたらまた読み返したくなってきた。

ホリエモンの懐の深さもさることながら、茂木さんは対談が巧いわ。他の対談本でも思ったけれど、相手の持てるポテンシャルを存分に引き出してくる。

幅広い教養と相手に対する敬意と洞察力が有機的に作用して、相手が準備していた以上のものをポジティブに出して来させる。そんな印象です。

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2011年8月 4日 (木)

「マイレージ、マイライフ」

71gzfwruucl__aa1439_ITバブルが華やかなりし頃、また村上ファンドのインサイダー取引事件があった頃、「虚業」という言い回しを良く耳にした。

何が「虚」で何が「実」なのかよく分からないが、純粋な肉体労働以外を「虚」と言われるのだったら、ホワイトカラーの大半が虚業を営んでいることになると思うけど。

マイレージ、マイライフ

一年のほとんどを北米中飛行機で飛びまわる出張族ライアン・ビンガム(ジョージ・クルーニー)の仕事は、企業から依頼を受けて従業員に解雇を通告すること。「出張」というライフスタイルを愛し、1000万マイルのマイレージに到達することのみを夢見る彼の生活は極めてシンプル。スーツケースに収まらない荷物も人間関係も背負い込まない。しかし、そんな彼の人生観を覆す出会いが訪れる・・・。

この主人公の仕事こそ最も「虚しい」もののひとつかもしれない。

企業からの依頼を受け、従業員に「クビ」を言い渡す。

依頼主とは違って実際の現場を飛び回る彼は、生身の人間たちの実情も十分踏まえたプロフェッショナルだ。

リストラを宣告された人がどういう反応を示すのか、そしてそれにどう対処すべきなのか、誰よりも現場を見てきた彼はスマートではあるけれども決して冷徹ではない。

このあたりの描き方は、観る人に主人公へのシンパシーを掻き立て、この特異なキャラクターに自然に寄り添うことができるように練られている。

JUNO」のジェイソン・ライトマン監督らしく心温まる設定だと思う。

余計なものを何も所有しない、極めてシンプルなライフスタイルを持つ彼に訪れた転機。そして・・・

ほろ苦い結果は恐らく誰にでも予想のつくものだが、この映画のあざといのは、どういう結末であってもジョージ・クルーニーなら「画」になるということだ。

胸にツンとくる挫折感と晴々しいくらいの虚しさは、ジョージ・クルーニーというキャラクターのダンディズムとヒロイズムを通して、観る者に映画的な充足感を与えてくれる。

最後には実際にリストラに遭って人生の岐路に立った人たちが数名登場し、コメントを残す。失業大国アメリカにおけるハート・ウォーミングなエールを設けたのだろうけど、ちょっとちぐはぐな感じも受けた。

ま、僕らはジョージ・クルーニーにはなれないからね。

観終わった後ほんの少しだけジョージ・クルーニー気分に浸れる(勧善懲悪のアクション・ムービーを観た人たちが肩をいからせて映画館を出て来るのに似てるよね)という意味では悪い映画ではないです。

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2011年8月 1日 (月)

「街場の中国論」

Machiba3_big 中国については思うところがたくさんある。

何故外交がここまでこじれなければならないのか?(本当はこじれているのではなく、何らかの眼に見えない取り引きがあるのか?) アメリカはどう考えているのか? 中国の発展は今後どうなるのか?(発展し続けることが可能か?環境問題はどうなるのか?)

ネット社会は韓国も含む隣国の話題に対して非常に敏感であり、隣国について、隣国との関係について語ることは相当にデリケートな問題である。

隣国に関するほんの些細な発言や記述が独り歩きして、ネットの匿名社会で「血祭り」にされることも少なくない。

しかし、冷静に考えてみると、そう言ったファナティックな意見が形成される土壌は、単純に僕たちが日本という国を愛しているという要素だけで成り立っているとは思われないような気がする。

つまり、何らか別の所からの「意思」が「そういう方向」に向かわせているのではないかと疑ってみずにはいられないのだ。

そういう僕の漠とした疑念にすっと収まるように答えてくれた一冊、「街場の中国論」。

日本の辺境性については良く理解しているつもりであったが(「日本辺境論」)、本来の「中華思想」から両国間の関係に迫る段は実に腑に落ちるものがあった。

中国(中国共産党)の考え方は、我々日本人の論理規範を単純に当てはめることで理解しようとするから無理が生じる。

「中華思想」しかり、「国民的統合の記憶の核」に立ち返るための方便としての「抗日・反日感情」しかり。

もちろんそれが外交というネゴシエーションの場で、(日本にとって)良いか悪いかというのとは別の次元の問題で、あくまでも「理解」の問題である。しかし、この肝心の「理解」がなされていなければ、タフ・ネゴシエーションの中から少しでも日本にとって良い条件を引き出すことは困難だと思う。

そういう観点から日本を牽引してくれる政治家が見当たらなそうなのは、日本の未来にとって憂慮すべきことかもしれない。

また、「理解」とは別に、第3者の「意向」が常にこの大陸と日本の間に入り込んでくることも忘れてはならないだろう。

アメリカと日本の関係、中国と日本の関係は常に「ゼロサム」であるという論は言いえて妙だ。

アメリカはアジア各国を分断統治しようとしている、という論には全面的に賛成である。

アメリカは日本や中国・韓国が戦争をしない程度に仲違いしている方が自国に利益を誘導することができるという。

結局のところミステリーと同じで、「誰が一番得をする?」という原点に帰れば、思わず膝を打つ。

(個人的には、中国はその同じ手法を、日本と韓国の間に適応しているのではないかと思っている。僕は90年代には官民ともに日韓蜜月の時代が来ると信じていた。それが困難を極めているのは、お互いの経済事情や米国との絡みだけによるものではないだろうと思う。内田先生には是非「街場の韓国論」も執筆していただきたい。)

かように、「街場」(誰にでもアクセスできる情報)から中国を読み解いたこの本。最初の版が出たのは2007年であり、古い話題も盛られているが、決して今も色褪せていない。そこに2011年初頭までの新しい事項を増補して、中国論を語りながら、優れた日本論、米国論にもなっている。

良きにつけ悪しきにつけ、中国に関する話題に事欠かない昨今、何度も読み返すべき本だと思う。

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2011年7月27日 (水)

「「読む、書く、話す」脳活用術―日本語・英語学習法」

56977553脳を活かす勉強法」に引き続いて読んでみた茂木健一郎氏の一冊、「「読む、書く、話す」脳活用術―日本語・英語学習法」。

氏の実践にしてきた、そして実践している「勉強法」をより具体的に「読む、書く、話す-日本語・英語学習法」に特化して書かれた本。

この本も「勉強法」と同じく、脳科学者の立場から具体的な検証や理由付けを試みてはいるものの、結局僕らの興味を引くのは、茂木氏が実際これまでどういう学習法を行い、そして今も行っているか、ということに尽きる。

脳科学的な検証は、これほどまでに優れた博覧強記の人物(茂木氏)を作り上げた理由をサポートしているのだが、恐らくこの本を手にする人の多くはその「具体例」に興味があるはず。

それだけ茂木健一郎氏の頭脳がブランド化されているということでもあるのだろう。

結局、僕もそれが知りたくて読んだんだしね。

ツイッターで茂木氏をフォローしていると、その知識と短時間で洞察力の鋭い文章を山のようにアップしてくる能力もさることながら、それ以上にその人格がとてもチャーミングだ。

この人柄が推奨する「勉強法」なら触れてみたいという気になった。

日本語では
読書力―「言葉」を読み、脳に知を蓄える
文章力―「言葉」を書いて脳を鍛える技術
話す力―言葉の熱で人は動く

英語では
リーディング力―英語習得のメカニズム
リスニング力―プライミング効果
スピーキング力―ネイティブ化計画
ライティング力―英語脳になる

に分けて具体的に「勉強法」を語りつつ、脳科学的に裏付けていく。

この本全体について言えることは、茂木氏自身が「学ぶ」ということに常にワクワクしている姿勢だ。

その熱い語り口はこちらまでワクワクさせて、学ぶことの楽しさを思い出させてくれる。

そういう訳で早速こうやってサボらずにブログも書いている。

モギケンの英語シャワーBOX実践篇」も買ってみた。

三日坊主にならずにやれるかな。

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2011年7月26日 (火)

「わすれた恋のはじめかた」

51btpxrzlxl__sl500_aa300_ 恋愛と人の成長物語を重ね併せた映画は少なくない。

古くは「愛と青春の旅立ち」なんかもそうだろう。

よくあるパターンとしては、主人公が何らかのトラウマ(またはコンプレックス)を引きずっていて、それが彼(彼女)に影を落としている(それがある意味彼(彼女)の魅力にもなっているのだけど―普段は明るい彼が時折見せる暗い表情・・・「何かほっとけない感じがするの・・・」とかね)。

そして、恋愛がうまくいきかけたところで、その「トラウマ」が原因で関係が破綻しかける。けれども、その「トラウマ」を乗り越え、人としても成長した時に恋愛も成就してハッピーエンド。

というのが王道のパターンかと思う。

この映画「わすれた恋のはじめかた」もその亜系のようだ。

3年前に妻を交通事故で亡くしたバーク・ライアン(アーロン・エッカート)は、辛い日々を乗り越えるために本を書き、今や自己啓発セミナーの講師としてその人気が沸騰中。愛する者を失った喪失感から人を救うために全米を奔走している。苦しい思い出の地シアトルでのセミナーも成功しつつあったが、滞在中のホテルでちょっと風変わりな女性(ジェニファー・アニストン)に心惹かれる。しかし、彼女との恋愛に向き合うためには、彼自身が逃げてきた過去と向き合わなければならなかった・・・

恋愛は人を成長させる(中には人をどん底に突き落とすものもあるけど)。成長物語+ラブ・ストーリー。ポジティブ・シンキングが大好きなアメリカ人にとっては恰好の素材なのだろう。

映画の設定は悪くない。

辛い過去を断ち切るように笑顔を振りまく男として、アーロン・エッカートはハマり役だと思う。

アーロン・エッカートは「この役ならアーロン」といった個性を築きつつあるいい役者だ。

けれどもこの映画はちょっと舌足らずな印象を受ける。

「愛する人の死」と正面から向き合うことを恐れてきた、けれどもそのことを利用した形で有名になってしまった男の歪んだ複雑な人生と釣り合うだけの物語が、恋愛相手エロイース(ジェニファー・アニストン)に足りないからだと思う。

エロイースという人柄を表現するエピソードは、もっとエキセントリックであってもよかったと思うし(脇目も振らないように人生と仕事を突っ走ろうとしている男を振り向かせる女性だ)、彼女自身が恋愛に素直に向き合えない背景ももう少し描きこんでも良かったと思う(映画の最初で軽くは触れられている)。

2番煎じっぽい邦題やパッケージ写真は甘いロマンチックな恋愛物語をメインに売ろうとしている風だけど、実際の物語のウエイトは主人公の屈折した成長物語に偏っている。

クライマックスでの義父(マーティン・シーン)との関係(確執からそして・・・)は感動的だが(少し取ってつけた感もあるけど)、売ろうとしているラブ・ストーリーの部分はそれに比べると弱くアンバランスな印象。

冗長にならずに全てを配分良く描くのは時間的にも難しいだろうし、どんな物語でもウエイトを置くべきポイントというものがある。

けれどもこの映画は、そのアンバランスさゆえにちょっと感動を削がれた感じがする。

そこが少し残念。

映画って難しいね。

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2011年7月22日 (金)

「おおきなかぶ、むずかしいアボカド」

41sjyfluafl__sl500_aa300_ こうやって毎日のように(2-3日に一度?)文章を書いていると、うまく文を書くのは本当に難しいと思う。

だらだら書いているとつい冗長になってしまうし、下手に刈り込むと何が言いたいのか分からない文になっていることも多い。

10年ぶりに復活した「村上ラヂオ」、「おおきなかぶ、むずかしいアボカド」。

村上春樹氏の文のうまさをじんわりと味わいながら楽しく読んだ。

村上氏は「小説を書くことはそんなにむずかしいとは思わない」そうだけど、「エッセイを書くのはむずかしい」らしい(「エッセイはむずかしい」)。

「エッセイを書くに際しての原則」として「人の悪口を具体的に書かない」「言いわけや自慢をなるべく書かない」「時事的な話題は避ける」ことにしていて、つまりは「どうでもいいような話」がエッセイとして世に出ているようだが(「同上」)、この何でもない話を、やっぱり何でもなく書くという技術は並はずれたものがあると思う。

きっと、何でもない話を、何でもなくはないように書く方がもっと簡単な気がする。

敬体と常体の入り混じった独特の文のリズムが気持ちよく(子供たちが読んだらこれ間違ってる!って言うかも)、ついつい読まされてしまう。

で、どうした、という話ではなく、たいていは大したオチもなく終わるのだけれども、つい次のページをめくってしまう。

何でもない話なんだけど、実は結構「起承転結」の構成もきっちりしていて、落語のように「話の枕」もうまい塩梅で配してある。

力を抜いて書いているようで、実はそつがないのが、面白く読める一番の理由かもしれない。

茂木健一郎氏は、文章が巧くなりたければとにかくたくさん書くこと、と述べていた。

そうかもしれない。

村上春樹氏は「小説は書きたかったんだけど、書くべきことを思いつけ」なくて、でも「とにかく書いているうちに自然に、「自分が本当に書きたいこと」がだんだんくっきり見えてきた」という(「医師なき国境団」)。

ブログのひとつでもこうやって書いてみるのが、文章がうまくなり、書きたいことが書けるようになる方法のひとつなのかも。

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2011年7月19日 (火)

「ザ・ロード」

51j7montjtl__sl500_aa300_ DVDで「ザ・ロード」を観た。

レンタルビデオ屋で棚を眺めると、似たような終末世界設定の映画がずらりと並んでいる。

パッケージ裏のストーリー解説を読んでみると、ゾンビものや疫病ものなどのちょっとしたバリエーションはあるものの、おおまかな根本設定はそう変わらない。

こんな傾向は日本や欧米諸国だけのものなのか? それとも世界的? イケイケの新興国では?

などと思いながら観た一本だが、これは結構ヤられた。

あまりに印象が強すぎて、この映画の中の情景がいつまでも頭から離れない。

戦争のためか、環境破壊のためか、完全に文明が崩壊した北アメリカ大陸を、ひたすら南へ旅を続ける父子の姿があった。人間を狩って生きながらえる輩たちが跋扈する非情な世界で、父(ヴィゴ・モーテンセン)は幼い息子に人としての倫を説きながら、サヴァイヴァル術を教えつつ過酷な旅を続ける・・・。

原作はコーマック・マッカーシーのピューリツァー賞受賞作らしいが、この近未来SF映画は異様に生々しくリアルである。

映画全体を覆う絶望感、逃げ場のないどうしようもなさというのがあまりにひしひしと伝わってきて、そのへんのオカルト・ホラーよりも遥かに背筋を凍らせる。

特に小さな子供を持つ人は、心臓をえぐられるような疼きを感じながらこの映画を体験することになると思う。

先に紹介した「ザ・ウォーカー」は、同じような終末世界を描きながらも、その根底に救いや楽観性を感じさせる娯楽作品になっているが、この映画はこれでもかこれでもかと痛々しい「現実」を突き付けてくる。

その分、最後にほんの僅か垣間見える希望(かもしれない)のたった数カットのシーンのインパクトも大きいが。

何故この映画をこれほどまでに生々しく描かなければならなかったのか? 何故この映画を僕らはこれほどまでに痛々しくリアルに感じるのか?

それは、僕らが、ここで描かれる世界がそう遠いものではないと、薄々感じているからかもしれない。

そう思うとまた背筋が冷たくなる。

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2011年7月16日 (土)

「ザ・ウォーカー」

51oph7k3hdl__sl500_aa300_ DVDで「ザ・ウォーカー」を観た。

文明が崩壊し、日々の食糧にも事欠く世界戦争後のアメリカ。西へ西へと歩きながら「ある本」を届けようとしている男(デンゼル・ワシントン)がいた。そして、その本の「価値」を知る男(ゲイリー・オールドマン)につけ狙われることになる・・・

原題は「The Book of Eli」。Eli(イーライ)というのは主人公(デンゼル・ワシントン)の名前。邦題も「ブック・オブ・イーライ」でよかったと思うけど。

終末の世界における略奪や食人。そして過酷なサバイバル。まさに弱肉強食。食うものがなければ人を殺してその肉を食うというのは極めて欧米的な発想だと思う。あまり日本人にはないんじゃないかな。

それだけでなく、この映画の根幹をなすのは極めて西洋的(キリスト教的)な世界観である。そういう観点からは、このプロットに我々が心の奥から入り込むことができない居心地の悪さを感じるのは仕方がないのかもしれない。

でも、「終末的な世界(アメリカ)で、正しいことをなそうとしている黒人と宗教を政治に悪用しようとしている白人の争い」って「そのまま」じゃん。

しかし、実はこの映画の驚きの結末はどうにもこうにも「とある有名な日本映画」そのままなのだ。

ネタばれになるので詳しくは書けないけれども、その結末の持って行き方には特にメタファーというのはないと思う(終末の世界を救う鍵が日本にあるとか、ね)。

脚本・監督たちの単なる日本映画好きが反映しているだけだと思う。

けれども、そのエンディングが暗い設定のこの映画に清涼剤的な味わいをもたらしているのは事実。

僕ら日本人がどこまでこの「世界」に入り込めるかどうかは別として、そのアクションも含めて楽しめる映画にはなっている。

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2011年7月15日 (金)

「脳を活かす勉強法」 茂木健一郎

しばらく前から、ツイッターで茂木健一郎氏をフォローしている。

学者らしい発言や熱い行動力で、実にチャーミングな人柄が伝わってきて、氏のツイートを読むのを楽しみにしている。

本屋に行くと、茂木氏の膨大な著作が並んでおり、「脳科学者」として幾分専門的なものから、如何にも短時間で執筆した風なハウトゥー的な本まである。

56969679脳を活かす勉強法

この本はどちらかと言うとその後者の部類に入るのかもしれないが、最近子供の「勉強」にどのように取り組んでいったらよいのかを模索しており、読んでみた。

埼玉県春日部市で育った茂木氏は、国立東京学芸大学附属高校から東京大学に進学した「秀才」だが、その勉強方法は「周りの人のそれとは、まったく違うもの」だったようだ。

茂木氏は、ツイッターなどで徹底して今のペーパーテスト偏重の受験制度を批判している(そこからはiPhoneやグーグルを生んだような才能は発掘されない・・・)が、しかし今の高校生たちに受験勉強を放棄しろとは言っていない。

茂木氏は、時々ツイッター上で直接高校生たちの質問にも答えているが、「受験勉強には才能は要らないから頑張りなさい」という旨のツイートをしている。

誰でもある程度のことをきっちりこなせば、必ず結果はついてくるものであるから、確かにそこにはクリエイティブな才能など微塵も必要とされない。

この本の中で述べてあるのは茂木氏の経験を通して「分かった」という「勉強のしかた」であり、脳科学的見地からそれを考察・検証している。

ただし、それぞれの論の基調をなすのは「脳科学的一般論」と言ってもいいものであって、さほど目新しいものもなく、必ずしも厳格な科学的根拠や論文が示されているわけでもない。

まあ、学術的な論文ではなく、あくまでも僕のような自分自身や子供の勉強法に悩む者を対象にした一般書なので、それも当然。ただし、その分だけ読み易いのも事実。

結局、この本の面白いところは「秀才」茂木健一郎氏の体験談であり、経験論的実践法なのだ。

だから、残念ながら誰にでも同じように出来るというわけではないだろう。

けれども、同じような方法論で、よりポジティブに目の前の問題に臨んだり、時間を有効に使うことができるかもしれない。その到達度はその人なりのものになるかもしれないが。

僕は個人的には受験勉強というのは「整理能力」に尽きると思っている。

ただ、そのことに気がついたのは、人生における重要な受験勉強がほとんど終わってしまってからだった(笑)。

茂木氏の「勉強法」は、ある意味「如何に巧く効率的に頭を整理するか」と言ってもさしつかえなく、その点からも十分納得のいく内容ではあった。

とにかく大事なのは思い立ったら四の五の言わずにさっさと取りかかること。「瞬間集中法」、「細切れ時間活用法」。

というわけで、ブログもサボらずにせっせと書くことにした(笑)。

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